勉強するといった体験
私の知っている人の話です。
彼は高3の現役時代に受験した大学すべてに落ちてしまいました。
一浪時代、またしても全滅。
模試の判定が悪かった時の気持ち、受験後の合格発表までのきつい期間、落ちた時の申し訳ない気持ち、などなどを誰よりも経験しました。
一浪しても全滅するなんて、彼は地頭が悪いのでしょう。
「結果ではなく過程」という言葉があります。
彼は、地頭は悪いけれど(地頭が悪いが故に)、「結果ではなく過程」を体験することができました。
現役時代、一浪時代、すべての大学に落ちることで、結果を残すことはできなかったけれど、「目標に向かって勉強をした」といった過程は残すことができました。
たとえ、勉強の仕方は間違っていたとしても、勉強した事実は本物です。
彼は、「勉強すること」を体験しました。
富をどこに積む?
聖書にある言葉です。
「富は、天に積みなさい。 そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
(マタイによる福音書 6:19-21)
私はこの聖句を「富は自分の内側に積みなさい」と解釈しています。
私は自転車通勤をしています。
最初は電動自転車を買うつもりでした。
いざ買おうとなると、いろいろとネットで調べます。
調べていくうちに、充電の問題が頭から離れなくなってしまいました。
「充電が切れたらただの重い自転車になってしまう」ということ。
「バッテリーの性能は1年で約60%にまで下がってしまう(注:当時)」ということ。
「バッテリーは3年ごとに買い替えなければならない(注:当時)」ということ。
いざ購入という段になったのに、こういったことが頭から離れません。
ある日、ふと頭に浮かびました。
「脚があるじゃん。」
自分の脚は、バッテリーなんかよりもずっと信頼ができることに気づきました。
電動自転車ではなく、クロスバイクを買いました。
確固たる自信をもって「バッテリーよりもはるかに高性能な脚がある」といった考えが浮かんだことは、私にとって、大きな発見でした。
財産は外側ではなくて、内側に積むものなのだと実感しました。
私は旅行が好きです。
スマホのない時代でした。
ポケット英和辞典の時代。
本屋で海外旅行に持っていく辞書を選んでいた時、ふと頭に浮かびました。
「分からなければ聞けばいいじゃん」
人に聞くことができる英語力を内側に積んでいたことに気づいた瞬間でした。
一般入試に立ち向かう君へ
君は「勉強すること」を自分の内側に積んでいます。
本気で勉強したという体験は、財産として君の内側に一生残るでしょう。
結果が保証されていれば努力もできるものです。
しかし君は、結果が保証されない中で努力を継続している。
これって、すごいことなんですよ。
君は受験勉強を通じて自らのOSをアップデートしようとしています。
不安でも堂々と受験に立ち向かってもらいたいと思っています。
燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや
ひぐらしと小鳩とは、この大鵬のありさま(九万里の高さを飛ぶ)を見て、あざわらっていう。
「われわれは勢いよく飛びたち、にれやまゆみの木をめがけて突進しても、ときにはとどかず、地面にたたきつけられることがある。それなのに、九万里の空にのぼり、南をさしてゆくとは、とほうもないことではないか。」
だが、近郊の野に出かけるものは、三度の食事をするだけで帰ってきても、腹のすくことはないであろうが、百里の地に出かけるものは、前夜から米をついて準備しなければならず、千里の地に出かけるものは、三ヶ月も前から食糧を集めておかなければなるまい。とするならば、ひぐらしや小鳩などに、大鵬の心を知ることがどうしてできるであろうか。
(『荘子 内篇』中公文庫)
自分の足
高く登ろうと思うなら、自分の脚を使うことだ!高いところへは、他人によって運ばれてはならない。人の頭や背中に乗ってはならない!
あなたは馬で登ったというのか?いそいで目標につくのは、これにかぎるというのか?よかろう、私の友人よ!だが、あなたの萎びた脚も、いっしょに馬に乗っていく!
目標について、馬から跳びおりるとき、「ましな人間」よ、ほかならぬあなたの山頂で―あなたはころぶだろう!
(『ツァラトゥストラはこう言った』新潮文庫)